平澤神父様エッセイ集

春めく

昭和51年(1976年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(8)

今朝、カメラを持って布池教会のまわりを歩いてみると、沈丁花が早春の陽ざしの中で可愛いつぼみを固く結んでいた。


今年は、四旬節が3月3日の灰の水曜日をもって始まる。「改心し続ける心」をこの時期に養おう。秘蹟の中にキリストと出会おう。この時期の典礼によって、教会は、かつて私達が求道者であった時のように熱心に祈るよう教える。


私達は、教会の典礼で朗読を聞く時、「神のみことば」と言い、「神に感謝」と答え、福音に対しては「神に栄光」「キリストに賛美」と唱える。反省してみよう。私達は「現代に、この教会で、神が語られていること」を意識し直す必要がある。


神は私に「改心」を呼びかけ、導き、主の支配をもって近づいて来られる。エマオの弟子達と共に歩まれた主は、四旬節の間、私の心のそばで、旧約に始まる救いのドラマがキリストの過ぎ越しに完結していくのを悟らせてくださるだろう。

イタリア フィレンツェの風景 

右側に見えるのはサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会(花の聖母教会)

(写真撮影:ベルナデッタ)




出発する喜び

昭和50年(1975年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(7)

教会は、復活と共に新たな出発をする。悲しみに「さようなら」して、喜びに「こんにちは」して。春が来るごとに「花による喜び」を新たにする私達なのに、復活ごとに「自分の真の喜び」を新たにすることが少ない。あなたの喜びは何ですか?と言われて「ハイ、信仰です」と単純に答えられるだろうか?きっと「家族です」「仕事です」「余暇です」「TVを見ることです」「旅行です」「読書です」「ゴルフです」などといった答えが多いと思う。「あなたの宝のある所に心もある」という言葉が胸を突く。


主の復活の日、弟子達は主に会って驚きの目で見、喜び、もう主が自分達から離れないのだという不思議な確信から、死ぬまでの旅路をまっしぐらに進んだ。復活のイエズスに出会ってから、その人生行路は一本の道になってしまった。教会の典礼は、このイエズスの復活の喜びを今年も私達の心に伝えてくれる。毎日、何を私は喜びとし、宝とし、拠りどころにしているか?と問いかけてみる。主も「歩きながら互いに語り合っているその話はなんのことか?」とエマオの弟子に話しかけられたように、話しかけてくださる。


弟子達は「イエズスは生きておられる」という非常な喜びのうちにエルサレムに帰った。そして、イエズスに生涯の愛と忠実を誓った。諸聖人は、その後に続いた。私達もその後に続こう。主の復活の喜びからの出発、その出発の喜びを抱きしめて。アレルヤ。

ローマ ドミネ・クォ・ヴァディス教会

(写真撮影:ベルナデッタ)




振り向く

昭和50年(1975年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(6)

近頃、「ふりむくな 鶴吉」というNHKドラマを時々見るにつけ、良い題名だな~と思う。十手をあずかる鶴吉は、職務に忠実であればあるほど「もし、俺があの犯人の立場であったら」と犯人に同情する。しかし、事件を扱う際には人情に流されてはならない。その心の葛藤を描いている。鶴吉が「振り向き」、失敗者・罪人へ同情せざるを得ないところに、視聴者を引きつけてやまない独特の美がある。


福音書の中で、私達の主も、出血病(長血)で悩む女性など、様々な人の方を振り向かれた。神が振り向いて人間を見られる。そこには、言葉にならない、あるいは言葉だけではない真実の愛がある。


ところで、私達は、自愛心や私利私欲から「振り向くしぐさ」だけをしていないだろうか?「振り向く」 ー 他の人の方を振り向いて助け、慰め、あるいは支えているだろうか? 私心から「振り向くしぐさ」をするのではなく、他の人を素直に愛したい。

津和野 乙女峠マリア聖堂

(写真撮影:ベルナデッタ)



家庭での祈り

昭和50年(1975年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(5)

先日、ある家庭に招かれた。私は久しぶりにくつろいで、二人の坊ちゃんと大声を出して野球ゲームに興じた。夕食の前、茶の間に集まり、長男の先唱で夕の祈りが始まった。3分間ほどの一日の反省もあり、祈りの後、パウロ会発行の子どもの聖書をお母さんが読まれた。お祈りの後、私は司祭として家族一人一人を祝福した。今年1月1日から、家族一致してこのように祈り続けているとのことだった。家族そろって祈る時、私は家族を見ておられる神様を感じる。


皆さんも、是非、ご夫婦で、ご家族で、または尊敬する友達と一緒に祈りましょう。きっと主の不思議な平和が四旬節の内に訪れますよ。そして一年中、いや一生涯続きますよ。「私の平和をあなたがたに与える」「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と主はおっしゃってくださいますよ。

ポルトガル  リスボンのテージョ川左岸における

イエス・キリスト様の御像

(クリスト=レイ像)

(写真撮影:ベルナデッタ)



利己主義の果て

昭和49年(1974年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(4)

子どもにも大人にも人気があるNHKの番組「刑事コロンボ」。私も、この「コロンボ」のファンの一人だが、これを見ているうちに、画面には表れていない別の視像を見ている自分に気がつく。多くの犯罪が、地上的幸福、征服と支配、自分の幸福への過剰な努力の動きに見える。利己主義...自分だけの幸福を追求する間違った方法は、ついに、犯罪と関わり合う。人間が人間的幸福を追求して走りまわる...私もそうだ。頻繁に利己主義に陥りそうになり、もがいている。日常生活の中、私も利己主義との小さな戦いで苦戦している。


キリストは、地上の世界に「何をどう求めるべきか」を教えるため、信仰と愛の果てには何があるのかを教えるため、幼児として、十字架の向こう側の復活をたずさえてやって来られた。コロンボ刑事よりも貧しい姿で。

アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の広場における等身大のプレセピオ

(写真撮影:ベルナデッタ)



表と裏

昭和49年(1974年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(3)

10月6日に金沢に立ち寄ったら、石川県美術館で「マチスと野獣派展」をやっていた。その中に、ルオーの旅芸人(ピエロ)の絵があった。粗い筆使いで描かれた絵に、私は足を止めた。彼は、この旅芸人の絵を何百枚も描いたという。解説には「悲壮味あふれるこのピエロは、単なるピエロではなく、むしろ人間の条件のシンボルとして描かれている」と書かれている。ある時、ルオーはエドアール・シュレに「『道化者』とは私のことだ。豪華で、キラキラ光るこの衣装だが、・・・私達の本当の姿をとらえる人がいたら、・・・限りない憐みを、その人が感じないと、誰が言い得よう」と言ったという。ルオーは人間をピエロとして描いた。自分がピエロだと何度も実感しながら。そして、私達に悟らせようとした。「私達はピエロである」ということを。神様が私達の日常の言動を見たら、ピエロのように見えるのではないか?孤独の内に何かを求めている。


私もピエロかな?私もピエロだな!しかし、神様は、きっと暖かい憐みの目でピエロ達を見ておられるだろう。主よ大いなる御慈悲もて、我らを憐れみ給え!

パリ ノートルダム大聖堂(撮影:ベルナデッタ)



母の日

昭和48年(1973年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(2)

若葉の月の13日。母の日。各家庭では、お母さんを尊敬するお祝いごとが、いろいろと行われたことでしょう。

司教座聖堂で若い移住信徒の集いがあり、信仰の母の日を祝いました。そのミサにおいて、私は、人間の心にある母への心をつくづく感じました。


青い青い五月

青い青い五月の空よ

青い青い五月の風よ

私の聖母連祷を天国の聖母にとどけておくれ

天の門・・・暁の星・・・

病人の快復・・・憂き人の慰め・・・

罪びとのよりどころ・・・

聖マリア われらのために祈り給え

フランス ルルド 聖母マリア様の御像

(写真撮影 ベルナデッタ)



花の歴史

昭和48年(1973年)「カトリック名古屋教区報」

編集後記(1)

今日4月8日花祭りの日、布池教会の桜も満開である。黒い枝から咲いている薄桃色の花は、春の空の薄青さとマッチして風情がある。今年の花は少し大きいようだ。私達は、花と言えば桜を思い浮かべる。そして、桜と人生とを結び付けたり、人生を桜に喩えたりする。百人一首の中にも「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」とか「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」「もろともに あわれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」などの句がある。


新しい胎動を祝うかのように桜は咲いている。新入生、新入社員、そして、新受洗者。新しいという言葉が妙に私達の心をざわめかす。それは私達の人生の可能性にふれるからか?希望に関わるからか?八重咲きの人生などという言葉もある。私達は皆、心の中では八重咲きの人生を願う。いや願わずにはいられないようだ。しかし、桜が、最近話題となっている公害で傷むように、人間も、各人の生活、殊に内面の生活において様々な公害に悩む。


主も、「神からの救い」を拒む人間の力にさえぎられた。しかし、復活の朝、死と「人間からの救い」は破られた。その日から、キリストの弟子達は十字架と復活の歴史を歩み始めた。一人一人の内面で、キリストは死に、復活する。人間の八重咲きの人生は、神の八重咲きの人生の前に色を失う。


「彼らの花はちりのように飛び去る」イザヤ。「女から生まれる人は日が短く、悩みに満ちている。彼は花のように咲き出て枯れ、影のように飛び去ってとどまらない」ヨブ。「その花は落ち、その美しい姿は消えうせる」ヤコブ。「その栄華はみな草の花に似ている」ペトロ。そして主は「野の花がどうして育っているかを考えてみるがよい」と言われたと福音書に記されている。


私は思う。花を前にして。その中に働き給う主を思う。私は自分を花だと思う。主の恵みなしに、この花は咲かない。「色々の事 思い出す 桜かな」。